人生論ノート
高校生のころ,現代国語(現国)という教科があった.私は不得意であった.
現代文章を読み,設問に答えるのであるが,出題者の求める解答を示すことがなかなかできなかったため,いつも赤点ギリギリであった.国語よりは生物や物理や化学,数学の方が点数を取りやすかったのであるが,現代国語も何とか人並みになりたいと思うものであった.克服するためにはどうすれば良いかと調べると,「現代国語のためには,このような本を読むべきだ」と,いくつかの書籍がよく挙げられていた.
その中に,三木清の「人生論ノート」があった.そこで高校生のころの私はこれを買ってみた.そして,読んでみると難解で全く頭に入らなかった事を覚えている.その本はとっくに何処に行ったか分からなくなってしまった.
既に私もいい歳になって,人生をそれなりに経験したつもりになっている.そんな中で,宿敵現代国語の肝であると言われていた「人生論ノート」を再び手にする機会があった.
今の私には理解できるのであろうか?
今でも理解できなかったら自分を軽蔑することになってしまうのではないか?
と思いながら,古い一冊を手にした.新潮文庫のもので値段は¥90となっている.
取りあえず,一つ目の「死について」を読んでみた.言っていることは理解できるが,何が言いたいのだろうか.全体として結論が書かれていない.死生観について,西洋と東洋の思想の違いを語っている.「死について」ではなく,死を考える事による西洋,東洋の思想の違いがあることを示しつつも,著者自身の結論は出していない,という感じがした.はっきり言って,私にはピンとこない.何故だろうか.
著者の三木清について,何も知らないじゃないか,と考え調べてみることにした.彼は1897年(明治30年)1月5日生まれで,1945年(昭和20年)9月26日に亡くなっている.私が想像している以上に昔の人だ.私の手にした人生論ノートは昭和29年(1954年)発行である.私が生まれるより前である.
「人生論ノート」自体は,1938年から1941年まで「文学界」で掲載されたエッセイをまとめたものであるという.1938年とは昭和13年である.戦前の国家総動員法が公布された年である.真珠湾攻撃が1941年であり,『旅について』と『個性について』,『後記』が追加されたものは,この1941年,開戦の年に発行されている.
三木清は戦争末期,仮釈中の治安維持法の容疑者(高倉テル)をかばったという理由で,刑務所に収監されたてしまう.そして,終戦後の9月26日に独房の寝台から転がり落ちて死亡しているのを発見された.
このような背景を知るとなるほどと思うこともあるが理解は難しい.1938年,「死について」が書かれたころ,三木清は41歳である.41歳の彼が書いたものを,60歳を越えた私は腑に落ちる感覚で理解することはできなかった.
以下,青空文庫より「」内を引用している.
「近頃私は死といふものをそんなに恐しく思はなくなつた。年齡のせゐであらう。」と書いている.抗生物質もなく,戦争の思い空気が漂う中,病気からの回復過程は,「病氣の場合のほか眞實に心の落着きを感じることができないといふのは、現代人の一つの顯著な特徴、すでに現代人に極めて特徴的な病氣の一つである。」というのも分かる気がする.
「すでにルネサンスにはそのやうな健康がなかつた。ペトラルカなどが味はつたのは病氣恢復期の健康である。そこから生ずるリリシズムがルネサンス的人間を特徴附けてゐる。だから古典を復興しようとしたルネサンスは古典的であつたのではなく、むしろ浪漫的であつたのである。」とある.高校生は,「ペトラルカ」など知らないだろうが,著者(三木清)は,未来の高校生を悩ますために「ペトラルカ」を出したのではないだろう.現在の私も知らなかった.ペトラルカは,イタリアの詩人・人文主義者(1304〜1374)でルネサンス期の代表的叙情詩人であり,恋人ラウラへの愛を歌った詩集「カンツォニエーレ」がある.
「リリシズム」とは何だろうか.lyricism【名】叙情主義である.
「古典を復興しようとしたルネサンスは古典的であつたのではなく、むしろ浪漫的であつた」とはどういうことか?
病氣恢復期の健康が,叙情主義であり,(叙情主義とは感情を表に表わすことであるから)ルネサンスは,感情表出的であると考えられるのだから,浪漫的であった,と言いたいのであろうか.
そしてさらに「新しい古典主義はその時代において新たに興りつつあつた科學の精神によつてのみ可能であつた。ルネサンスの古典主義者はラファエロでなくてリオナルド・ダ・ヴィンチであつた。健康が恢復期の健康としてしか感じられないところに現代の根本的な抒情的、浪漫的性格がある。いまもし現代が新しいルネサンスであるとしたなら、そこから出てくる新しい古典主義の精神は如何なるものであらうか。」と続く.かなり理解しにくい.ルネサンスの「古典主義はその時代において新たに興りつつあつた科學の精神によつてのみ可能」という主張は,根拠がはっきりしないのだが,三木清の基準を受け入れるならば,ダ・ヴィンチは,ラファエロより,一世代前の人物で,その作風が精密,科学的であった事を考慮して,「ルネサンスの古典主義者はラファエロでなくてリオナルド・ダ・ヴィンチであつた。」と言っているのかもしれない.
第3段に,「どんな場合にも笑つて死んでゆくといふ支那人は世界中で最も健康な國民であるのではないかと思ふ。」とある.そのような事が何かの書物に書かれているのであろうか? 不思議に思い,インターネットで検索してみると,「笑死了」という言葉があるらしい.しかし,そこに示された意味はちょっと違う.「死了」は元々の意味は死んだという意味だが,「形容詞➕死了」というように程度補語として用いられる場合,その意味は「〇〇しすぎて死にそう」という意味だという.漢字だけを見ると「笑って死んだ」という意味に間違われやすいが,笑いすぎて死にそう,といういみであるという.「笑つて死んでゆくといふ支那人」と言うことについて,AIに聴いてみたところ,『三木清の『人生論ノート』にある「笑つて死んでゆくといふ支那人」という表現は、彼の死生観と中国文化に対する考察の一部として語られています。しかし、同様の記述が他の文献にあるかどうかについては、明確な例を見つけることができませんでした。
渋沢栄一の『実験論語処世談』には、中国人の性質についての考察が含まれていますが、三木清のような「笑って死ぬ」という具体的な表現は見当たりません。また、京都大学の研究資料にも中国の文化や信仰に関する記述がありますが、直接的に「笑って死ぬ」というテーマに言及しているものは確認できませんでした。』といいうことであった.
「死は觀念である。」という.「觀念らしい觀念は死の立場から生れる」「思想といはれるやうな思想はその立場から出てくる」
これらの事はつまり,死は思想の結果であると言いたいのであろうか.
「執着する何ものもないといつた虚無の心では人間はなかなか死ねないのではないか。執着するものがあるから死に切れないといふことは、執着するものがあるから死ねるといふことである。深く執着するものがある者は、死後自分の歸つてゆくべきところをもつてゐる。それだから死に對する準備といふのは、どこまでも執着するものを作るといふことである。私に眞に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する。」
ここなどは,何か大事なものを守るために,死ぬ事ができるという考え方であり,日本人の感覚では,子どものためには命を捨てる覚悟があるとか,宗教の教義を守るためには命をかけられるとか,いう考えであり,そのような考えがあることは理解できるし,原理主義的になれば,あの世で永遠の命を得る,ということであろう.
「死の問題は傳統の問題につながつてゐる。死者が蘇りまた生きながらへることを信じないで、傳統を信じることができるであらうか。蘇りまた生きながらへるのは業績であつて、作者ではないといはれるかも知れない。しかしながら作られたものが作るものよりも偉大であるといふことは可能であるか。原因は結果に少くとも等しいか、もしくはより大きいといふのが、自然の法則であると考へられてゐる。その人の作つたものが蘇りまた生きながらへるとすれば、その人自身が蘇りまた生きながらへる力をそれ以上にもつてゐないといふことが考へられ得るであらうか。もし我々がプラトンの不死よりも彼の作品の不滅を望むとすれば、それは我々の心の虚榮を語るものでなければならぬ。しんじつ我々は、我々の愛する者について、その者の永生より以上にその者の爲したことが永續的であることを願ふであらうか。」
言っていることが哲学的で,庶民には何が言いたいのか分かりづらい.というか,そのような事を考えて,一々意見として表出するのが哲学というものだな,という感じがする.
ピタゴラス(原因)は,ピタゴラスの定理(結果)より偉大である,ということであり,
ソクラテス(原因,ソクラテス自身は一切の著述を行わなかったため,死後に執筆を行った弟子達がソクラテスの思想を後世に伝えた)は,ソクラテスの思想(結果)より偉大である,と言うことである.
最後の段である.
「かやうな傳統主義はいはゆる歴史主義とは嚴密に區別されねばならぬ。歴史主義は進化主義と同樣近代主義の一つであり、それ自身進化主義になることができる。かやうな傳統主義はキリスト教、特にその原罪説を背景にして考へると、容易に理解することができるわけであるが、もしそのやうな原罪の觀念が存しないか或ひは失はれたとすれば如何であらう。すでにペトラルカの如きルネサンスのヒューマニストは原罪を原罪としてでなくむしろ病氣として體驗した。ニーチェはもちろん、ジイドの如き今日のヒューマニストにおいて見出されるのも、同樣の意味における病氣の體驗である。病氣の體驗が原罪の體驗に代つたところに近代主義の始と終がある。ヒューマニズムは罪の觀念でなくて病氣の觀念から出發するのであらうか。罪と病氣との差異は何處にあるのであらうか。罪は死であり、病氣はなほ生であるのか。死は觀念であり、病氣は經驗であるのか。ともかく病氣の觀念から傳統主義を導き出すことは不可能である。それでは罪の觀念の存しないといはれる東洋思想において、傳統主義といふものは、そしてまたヒューマニズムといふものは、如何なるものであらうか。問題は死の見方に關はつてゐる。」
難解である.仮定をおいて,その仮定の中にさらに条件分けをした時の事について論じている.原罪説を背景にして考へなければどうなるのか,原罪が失われなければ,如何に考えるのか?
「かやうな傳統主義」とは何だろうか.前段に「從つて言ひ換へると、過去は眞理であるか、それとも無であるか。傳統主義はまさにこの二者擇一に對する我々の決意を要求してゐるのである。」とある.一方,「歴史主義」には定義がないが,いはゆる歴史主義,となっているから,概ね皆が理解している歴史主義ということであろうが,ウィキペディアには”歴史主義は極めて多義的な概念であり、その時代・論者によって意味が異なることから注意が必要である”「原罪を原罪としてでなくむしろ病氣として體驗した。」や「病氣の體驗が原罪の體驗に代つたところに近代主義の始と終がある。」も,理解困難である.
最後は「問題は死の見方に關はつてゐる。」で終わっている.
人生論ノート「死について」
結局,今でも私には難解な文章であった.しかし,今の私には,この文章はわかりにくい文章であり,理論の展開が分かりやすく書かれていない文章である,といえる.彼は彼の理論を展開するための,説明を端折っているか,言葉の定義を明らかに示さない,あるいは背景情報を出さずに文章を綴っていると断言できる.かれがそのような文章を書いた理由は分からない.
数学の証明で言えば,重要な行(理論展開の根拠)を書いていない.仮定→説明1→説明2→説明3→結論→証明完了,となるべき所を,仮定→結論→証明完了と論を進めているようにみえる.
このような事は,ある程度情報共有がなされている同じ職業などの集団で発生するし,著者がめっぽう頭が良くて,説明を入れなくても皆分かるだろうと思い込んで文章を書いたときに生じる.
私が学生時代の高校の先生はこれを理解していたのだろうか,と改めて思った.